書写の上人は*、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり*。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな*」と言ひけり。焚かるゝ豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ*」とぞ聞えける。
書写の上人は:<しょしゃのしょうにんは>と読む。播磨の国(今の兵庫県) 姫路の天台宗書写山円教寺の住職性空<しょうくう>上人(910〜1007)。
法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり:法華経を体得した人で、六根を清浄にした僧侶。6根はは眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)で煩悩の根源。
疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな:豆が豆殻の火で煮られているので、「身内である豆殻のお前たちが、何の恨みあってのことか知らないが、私を煮て、熱くて辛い思いをさせるなぁ」
我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ:「わしらが本心から豆を煮るものか。 こうして火に焼かれる俺たちだって耐え難いのだが 、どうしようもないんだ。そう恨まないでおくれよ」と豆殻が言っているように、性空上人には聞こえた、という。実に優しい人だ。
性空上人でなくとも、豆をその豆柄で煮るというのは止めた方がよいと思う。あまりに可哀想過ぎるから。
しょしゃのしょうにんは、ほっけどくじゅのこうつもりて、ろっこんじょうにかな えるひとなりけり。たびのかりやにたちいられけるに、まめのからをたきてまめをにけるおとのつぶつぶとなるをききたまいければ、「うとからぬおのれらしも、うらめしく、 われをばにて、からきめをみするものかな」といいけり。たかるゝまめがらのばらばらとなるおとは、「わがこころよりすることかは。やかるるはいかばかりたえがたけれども、ちからなきことなり。かくなうらみたまいそ」とぞきこえける。