徒然草(上)

第67段 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。


 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり*。人の常に言ひ粉へ侍れば*、一年参りたりしに*、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて*、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る*。吉水和尚の*、月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はこゝにありはらと詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ*」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は*、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し*。作文・詞序など、いみじく書く人なり。

賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり:上賀茂神社の末社の岩本神社と橋本神社は、それぞれ在原業平と藤原実方を祀った神社である。藤中将実方は、藤原行成と女性のことで争って、そのために陸奥に追放され、その任地陸前の笠島神社の社前で落馬して死去した。後に芭蕉は『奥の細道』でここを通りかかった。実方が行成と争った女性と言うのは清少納言だと言い伝えられている。 また、在五中将有原業平(825〜880)安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。阿保親王の第五子。伊勢物語の主人公とされ、失恋の末に関東地方を旅したことになっている。 二人とも、種流離譚の主人公。

人の常に言ひ粉へ侍れば:<ひとのつねにいいまがえはんべれば>と読む。二つの社を人々は混同して間違うので、の意。

一年参りたりしに:あるときお参りした時に。

老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて:年とった宮司が私の前を通り過ぎようとするのを呼び止めて、の意。

実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る:実方が死んだ後にその霊が「御手洗川<みたらしがわ>」に映ったといわれているから橋本社の方でしょう。そこの方が水に近いですから。御手洗川が神社の西を流れている鴨川を指すのか?一般的に神社の御手洗の流れる川の意か?は、これだけでは分からない。多分、前者の意ではあろうが。

吉水和尚の:<よしみずおしょう>とよむ。天台座主慈円(1155〜1225)のこと。関白太政大臣近衛兼実の実弟、『愚管抄』の著者で、当代きっての教養人の一人。彼の歌に「月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はこゝにありはら」とあるから、岩本の方、つまり川から離れている方が 業平朝臣でしょうね。

己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ:私らなどより、あなた(兼好)の方がずっとよくご存知のように思われますが、と宮司が言ったというのであろう。

今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は:「今出川院近衛」は亀山天皇の中宮僖子<きし>の女官。権大納言鷹司伊平の娘という。『続古今集』などに多数入集。

人の口にある歌多し:人口に膾炙した歌を多数作った。


 上賀茂雷土神社の二つ末社の謂れと、これらが在原業平と藤原実方を祀っていることと、ここの水で歌を書くことで、歌がうまくなる話。さもありなん。


 かものいわもと・はしもとは、なりひら・さねかたなり。ひとのつねにいいまがえは んべれば、ひととせまいりたりしに、おいたるみやづかさのすぎしをよびとどめて、たずねはんべりしに、「さねかたは、みたらしにかげのうつりけるところとはんべれば、はしもとや、な おみずのちかければとおぼえはんべる。よしみずのおしょうの、

つきをめではなをながめしいにしへのやさしきひとはこゝにありはら

とよみたまいけるは、いわもとのやしろとこそうけたまわりおきはんべれど、おのれらよりは、なかなか、ごぞんじなどもこそそうらわめ」と、いと うやうやしくいいたりしこそ、いみじくおぼえしか。

 いまでがわのいんのこのえとて、しゅうどもにあまたいりたるひとは、わかかりけるとき、つねにひゃくしゅのうたをよみて、かのふたつのやしろのみまえのみずにてかきて、たむけけられけり。まことにやんごとなきほまれありて、ひとのくちにあるうたおおし。さくもん・しじょなど、いみじくかくひとなり。