徒然草(上)

第7段 あだし野の露消ゆる時なく、


 あだし野の露消ゆる時なく*、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん*。世は定めなきこそいみじけれ*

 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち*、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや*。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ*

 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく*、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して*、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

あだし野の露消ゆる時なく :「あだし野」は、京都市右京区嵯峨、小倉山の麓の 地。中古、火葬場があり、東山の鳥辺山(とりべやま)と併称された。名は「無常の野」の意で、人の世のはかなさの象徴としても用いられた(『大字林』)。「露が消える」のは人が死ぬ事を意味する。
鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん:「鳥部山」は「鳥部野」のこと、京都市東山区の清水(きよみず)寺から西大谷に通じるあたりの地名。古く、火葬場があった。(『大字林』)。煙が立ち去る事で人の死を意味する。つまり、人が何時までも死なないのでは、「もののあわれ=無常 観」などというものは無くなってしまう。
世は定めなきこそいみじけれ:世は、無常ゆえによいのだ、というのである。これが、中世の無常観の エッセンスである。
かげろふの夕べを待ち:蜻蛉は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや:しみじみと一年を暮らせば、豊かな時間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう。 
めやすかるべけれ:見た目に感じがよい。見苦しくない。また、無難だろう、などの意。
かたちを恥づる心もなく:歳を取ると、もはや容貌を恥じる心も無くなってしまって。
夕べの陽に子孫を愛して:「夕べの陽」はもはや沈む太陽のように早晩死ぬというのに、子孫のことを気にして、それが栄えるまでの未来を希い、長生きする事ばかり考えるのは、「もののあわれ」の分からない木偶の棒で、あさましいという以外にないというのである。 「朝露にし名利を貪り、夕陽に子孫を愛す」(『白氏文集』)よりの引用。


 『徒然草』集中最も有名な一段。強烈に無常観を主張する。「命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」と主張した兼好ではあったが、自らは(1283〜1352?)と70歳ぐらいまで生きた。当時の平均寿命からすれば、当人は倍の長きにわたって世にはびこったことになるのだが。本書の執筆は、兼好43歳ごろと推定されているので、当人はすでに理想の死亡年齢を過ぎていた事になるのだが、よもや70までとは思わないまま経過したのであろう。
 こういう生き死にのことは、言わないが良いという好例である。


 あだしののつゆきゆるときなく、とりべやまのけむりたちさらでのみすみはつるならいならば、いかにもののあわれもなからん。よはさだめなきこそいみじけれ。

 いのちあるものをみるに、ひとばかりひさしきはなし。かげろうのゆうべをまち、なつのせみのはるあきをしらぬもあるぞかし。つくづくとひととせをくらすほどだにも、こよのうのどけしや。あかず、おしとおもわば、ちとせをすぐすとも、ひとよのゆめのここちこそせめ。すみはてぬよにみにくきすがたをまちえて、なにかせん。いのちながければはじお ゝし。ながくとも、よそじにたらぬほどにてしなんこそ、めやすかるべけれ。

 そのほどすぎぬれば、かたちをはずるこころもなく、ひとにいでまじわらんことをおもい、ゆうべのひにしそんをあいして、さかゆくすえをみんまでのいのちをあらまし、ひたすらよをむさぼるこころのみふかく、もののあわれもしらずなりゆくなん、あさましき。