『山梨大学附属図書館だより第10号』1996.10

 「よりよいコミュニケーションのために」 

 


工学部電子情報工学科教授

情報処理センター長

伊 藤  洋


 情報とは「不確実な事態に対処するために必要となる要素」であり,情報を取り込むこと(in-)によって不確実性が払拭された受信者には以前とは違う形(-formation)が身内に形成されることでしょう.また,コミュニケーションとは,情報をやり取りすることによって情報量に格差のある個人や集団の間で「共通(common)」の認識が達成されることです.この場合,情報を伝達するのに言語や文字・映像・音声,あるいは身振り・手振りや表情・音楽・絵画・匂いなど多種多様なものを媒介させますが,これらを総称してメディアといいます.メディアを構成する個々の要素をコードということがあります.

 私たちがコミュニケーションをするときには,情報内容を相手に「意味あり」と認めてもらえるように情報をコード化しテキストを生成し,これを伝送経路を通じて相手に伝えます.この場合送信者は,彼が所持しているコードに付随している「辞書」と「文法」を参照しながら作業を進めます.発信者が「普遍的な」辞書と文法に則って「正しく」コード化されたテキストを発信し,伝達の中途に伝達を邪魔する雑音がなく,受信者が「正しく」テキストを受信した上で,同じく「普遍的な」辞書と文法の規定にしたがってテキストを解釈してくれたら「理想的な」コミュニケーションが成立します.

 コンピュータを使って行う情報伝達はその意味で「理想的な」コミュニケーションの仕組を作り上げています.まずコードは,(日本語ではJIS・SJISやEUCなど,英語ではASCIIなどというように)言語の多種性その他のためにいくつもの種類があるのは困りものですが,それでも規格化されていてそれに従う限りきちっと体系化されていますし,伝送にあたっても(現在ではTCP/IPなどのようなデファクトスタンダードな)通信プロトコルが定義されていて,そのプロトコルに従う限り情報は確実に伝達されます.仮りに経路の途中に雑音があってテキストが正確に送られないような場合でも,誤り訂正の仕組が通信プロトコルの中に組み込まれていて余程劣悪な環境でない限りコミュニケーションが不能になることは今では考えられません.そのことは,みなさんがインターネットで地球上の津々浦々の人々と情報をやり取りできることですでに体験済みのはずです.ところが,人間が介在するとコトはこのように「理想的に」はいきません.その結果深刻なディスコミュニケーションを招来してしまいます.

 ディスコミュニケーションの要因はそれこそ無数にありますが,中でも顕著なものとして上述のコード体系の「普遍性」の欠如を上げることができます.特に近年の学生諸君のコード体系の未成熟は目を覆うばかりです.そもそも大学に入ってくるには,入試という難関をくぐってきますが,あれはコミュニケーション論から言えば,入学後に大学の学習に必要な過不足無いコード体系を用意しているか否かを確認するためのものに他なりません.そして偏差値の高低は一応措くとして,あんな難解な入試センターテストで程々の戦果をあげている筈の本学の学生達はほぼ十分な「辞書」と「文法」が備わっているはずです.しかし,実態は惨澹たるものです.

 1994年の秋1013日夜9時からのNHK《ニュース9》は,ニュース速報として番組中途から大江健三郎のノーベル文学賞受賞を伝えました.私は丁度何時ものとおり遅い夕食の膳についていましたが,この報に接して思わずお碗を振り上げて快哉を叫んでしまいました.何しろこの作家とは,実に40年近くその全作品の読者として「同時代」を生きてきたという思いがあったからです.その夜のうちに,家を出ている子供たちからもEメールを通じて喜びのメッセージが寄せられたりもしました.興奮覚めやらぬ翌日が講義に当たっていましたから,授業の初めに早速私の「大江健三郎論」を一くさり述べました.

 そもそも世界文学と呼ばれるような普遍的文学は大別して,シェイクスピア・セルバンテス・ゲーテ・ドストエフスキーのように作品の中で実に特異な人間類型(ハムレット・ドン=キホーテ・メフィストフェーレス・ムイシュキン公爵・スタブローキン・カラマーゾフ三兄弟等々)を作り出すことに成功したタイプのものと,もうひとつダンテやラブレーなどに代表される世界構造を構築して成功した作品群の二種類があるが,大江の文学は後者に属する.天皇制と国家主義につながる記紀に対抗し,核の業火につながる国家権力に異を唱える,新しい20世紀の「神話」世界を創造したという意味で,私小説に傾きがちな日本文学には前例の無い雄大なスケールの文学を作り上げた.そういう意味で大江文学はこの国が発する初の世界文学たる資格を有していると僕は思う,というような話をしました.とくとくと述べていて何かおかしいぞ,反応が無いぞと感づき始めました.そこで大江健三郎という作家の作品を読んだことのある人は?といって挙手をしてもらったところ50人中一人もいない.それでは名前だけでも知っていた人は?と尋ねてみると,これが今朝の新聞で知ったという人ばかり6人でした.まさかと思って,ドストエフスキーについて尋ねたところやっぱり,作品を読んだことのある人は皆無,名前を知っていた人が3人という有様ではありませんか.つまり,口角泡を飛ばした私の「大江論」は見事にディスコミュニケーションであったというわけです.

 理科の学生に文学は関係が無いといえばそれまでですが,より良いコミュニケーションを求めようとするなら,自らの辞書と文法を限りなく豊かにしておかなくてはなりません.世はあげて情報化・国際化と言われています.情報化も国際化もつまるところその中に生きる人々のコードとテキスト統辞体系のことに他なりません.コードを豊かにする最良の方法は読書にしくはありません.時あたかも秋の夜長,在学中に「岩波文庫」を最低300冊読んで卒業するくらいの決心をしたいものです.それが情報化・国際化のなかでよりよいコミュニケーションを作り上げる早道なればこそです.そして時代は高齢化.みなさんに,世界一の長寿国に住む文化的コードの貧困な老人(スウィフト作『ガリバー旅行記』第三篇参照)にだけはなって欲しくありませんから.