(「山梨日々新聞」1993.4.15)
金丸信自民党前副総裁の巨額脱税事件については、既に多くの報道や批判が寄せられている。そのあまりの無軌道ぶりには大きに呆れ果てるが、それでいて筆者の心の中では、この事件は起こるべくして起こったことであり、堕ちた犬よろしく打たれている前副総裁こそ最大の被害者ではないかという想いが拭えない。
そもそも現在の我が国政治体制が出来上がったのは、左右社会党の統一とそれに続く保守合同が成った一九五五年である。この「五五年体制」は、東西冷戦という第二次大戦後の世界政治の文脈と調和していたという点で、ある種の歴史的必然性がある。しかし、今や東西冷戦は過去のものである。それゆえ冷戦後の世界政治の枠組みに日本の政治が適応できるわけがない。すでに、日本の政治的枠組みは、その歴史的役割を終えて過去のものになっている。それなのに五五年体制の申し子そのもののような政治家金丸前副総裁が政治の中枢に祀り上げられていた。これは、歴史の悪戯以外の何物でもない。アナクロニズムに陥った日本の政治は、国にあっては「国対政治」、山梨県にあっては「県民党政治」に結果した。
この半世紀にわたる東西冷戦という世界政治場裡において、我が国の政治がヘゲモニーを発揮することはついになかった。日本の政治は常に状況対応型に終始し、国際世論を喚起したり、冷戦の緩和の為に積極的国際貢献を果す気概も能力もなかった。世界に二つとない不戦の憲法を持っていてすらである。しかし、世界大の問題にコミットしていくよりも己れの経済的繁栄のみを多くの国民が望んだという状況下では、そのことが政治的に問われるところとはならなかった。その結果、一流(?)の経済に二流の政治が奉仕するという政財官の癒着構造が出来上がっていく。その二流政治世界の頂点に金丸前副総裁は立ち、そこから転げ落ちた。
こういう構造を積極的に構築し支持してきたのは他でもないこの国の国民である。分けても前副総裁の地元山梨県の選挙民は、公共事業優先・中央直結政治を主張する同氏に限りない支持を与えてきた。このことは、同氏が初当選以来一度も落選を経験しなかったこと、それどころかその殆どの選挙においてトップ当選を果してきた事実が雄弁に物語っている。いま、金丸批判の大合唱が聞えてくるが、こういう政治家を育ててきたのは日本と山梨県の政治風土である。
映画『ニュールンベルク裁判』は、ナチの中級官僚達の数々の悪業が裁かれる物語である。被告らは、彼らの行為がすべからくヒットラーによって命ぜられたものであり、自分たちがそれを拒否することは許されなかったのだから無罪であると主張した。しかし、裁判長は、もし君たちが協力しなければナチズムがあのように燃え盛ることはなかったのであり、被告たちにとって行為の判断基準は、「ジャスティス(正義)」であった筈だと述べて、全員に死刑の判決を言渡す。この映画の主題に即して言えば、金丸事件を前にして裁かれなければならないのは選挙民であり、彼らがかくも金丸的なるものの価値を尊ばなかったらこういう貧困な政治が繁栄することはなかったと言わなければならない。選挙民にとっての判断規範は、公共事業の地元優先でも中央直結でもなく、倫理の最高実践としての政治であった筈である。
さて、冒頭の一首は、承久の乱に敗北した後鳥羽上皇のものである。戦後政治は、半ば必然的に象徴として金丸事件というおどろおどろしき政治腐敗に結実した。これを機に、正義の熊手を持ってまっとうな政治への「道」を探し当てなくてはならない。それには、選挙民が猛省することである。選挙民が変わることでしか政治を変えていく「道」はないのだから。