芭蕉db

芭蕉の父・松尾与左衛門

(?〜1656)

 

 松尾家は平家の流れをくむと言われている。与左衛門は、伊賀の国阿拝郡柘植郷の生まれ、後に上野に移住したらしい。柘植の土豪柘植七党の松尾氏の傍流と言われている。無足人と呼ばれる地侍クラスの無給の農民だったようだが、父祖の地を離れたためにその資格を失ったようである。 この父は、芭蕉が13歳の年に病没。松尾家菩提寺=愛染院<あいぜんいん>に 埋葬。そのこともまた一家にとって苦難の基となったはずで、芭蕉の初等教育環境は決して豊かなものでなかったことが想像される。
 母は伊賀名張の生まれ、祖先は、藤堂高虎の伊賀転封に同行した伊予宇和島の桃地氏につながるといわれている。芭蕉が「桃」の字を自らはもとより 、近親者を中心に多くの門弟に命名しているのは、ここに由来する のかもしれない。そうだとすれば、芭蕉自身はそのことについて意識があったのかもしれないが、これも確たる根拠があるわけではない。その母は天和3年(1683年)6月20日死去。芭蕉の『野ざらし紀行』は、その母の墓参を目的としてもいた 。
 このように、封建武家社会のこの時代にあって、芭蕉一家の身分階級は決して高いものではなかったのであって、しばしば芭蕉を武士階級であるがごとき言説がなされるが、願望の域を出ない説である。
 芭蕉の兄弟は、兄松尾半左衛門ほか姉1人、妹3人の6人兄弟。芭蕉は松尾家の 第三子次男 。兄夫婦には子供が無く、末の妹およしを嫡子として婿を取り家系を維持した。また、姉は結婚して一子をもうけ、何らかの事情でその子の養育ができず、芭蕉が芭蕉自身の子供として江戸に連れていって養育している。これが、猶子桃印だが、芭蕉より先元禄6年に早逝している。
 なお、松尾家は少なくとも法的な戸籍文書上は現存しない。

年表Who'sWho/basho