(Revised on
2008/09/15)
Q: 須賀川の章、で「橡ひろふ太山」のところは「深山」ではないのですか?「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落ちる橡ひろふほど」とあるので、「深山」かと思うのですが、ほかに何か意味があるなら教えてください。
A: 書物によっては「太山」と標記せずに、「深山」と書き替えて上梓しているものもあるくらいです(新潮古典文学集成「芭蕉文集」など)。しかし、芭蕉の自筆本も、西村本、柿衛本もすべて「太山」を使っていますので、本書は西村本に従って「太山」と表記しました。
ご指摘のように、「太山」は「深山」のことです。それ以上の深い意味はありません。ただ、こういう用語の使い方は芭蕉独特のものと言っていいと思います。「太山<みやま>」は「深山<みやま>」のことですが、同時に「太山<たいざん>」にもつながり、そこから中国の「泰山」につながります。大好きな 漢詩の中国文学と、尊敬してやまない西行とを介在して芭蕉の心の中で「深山」が「泰山」・「太山」へと変質していったのでしょう。
ちなみに、可伸の庵は、街の真ん中にあったのであって、「深山」でもなんでもなかったので、芭蕉に激賞されたことで、後日大評判を得た可伸は困ってしまったようです。
Q:突然のメールで失礼いたします。
芭蕉データベース愛読させていただいております。素人の素朴な質問で大変恐縮でございますが、前より、大垣市内の碑にある芭蕉の「萩にねようか荻にねようか」の句がいわゆる芭蕉句集に入っていないのを不思議に思っております。
それはこれが発句でないからでしょうか?それとも何かほかに理由があるんでしょうか。お暇な折にでもご教授いただければ誠に幸甚に存じます。(05/06/16)
A:Kさん
ようやく五月雨の雰囲気になってきました。奥の細道では、芭蕉は今日は松島に居ました。
さて、ご質問の「萩・・ 荻・・」は、奥の細道を終えて大垣で木因や如行らと巻いた歌仙の付句でした。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/letter/sanpu02.htm
をご覧ください。
まあ、句集に記録するときには、發句をもって掲げる習慣に従ったということですが、これなどは実に生き生きした付句ですよね。萩はいいとして、荻は嫌われるものですが、旅の楽しさとつらさを凝縮してこう応対する詩人のすごさを感じます。
ぜひ、これからもどうぞ堪能してください。
蕪村のよい本というのは私も知りたいテーマでした。あしからず。発見したらお教えしましょう。
Q:突然のメール、恐れ入ります
私、和歌山県○○町という小さな町で、まちの広報紙を担当しています。この度、取材先で、芭蕉を趣味で研究している方(100歳)のインタビュー中、その方が、この句が一番好きだと答えられました。
「うかうかと 年寄る人や 古暦(ふるごよみ)」
話言葉を聞いて、メモをとりましたので、間違っているようです。伊藤さま、もしご存じであればご教示下さい。
お忙しいと存じますが、どうかよろしくお願いします。
Q: 私は芭蕉の生誕地、三重県の上野市に住んでおりますMYといいます。
Q:早々のご返事、誠にありがとうございました。
Q 伊藤様、はじめまして
突然のメールで失礼いたします。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」の中の敦賀滞在について調べていて、伊藤様の芭蕉DBを拝見いたしました。 そのなかの、芭蕉が福井、敦賀滞在中に月見の句を15句詠み、その句を門人の宮崎荊口が「芭蕉翁月一夜十五句」にまとめているという箇所ですが、この芭蕉DBには14句しか記載されていませんでした。
他の市販の芭蕉の句集なども捜して見たのですが、荊口句集についての記載がみあたりません。 もし、十五句目についてなにかご存知でしたら、ぜひ教えていただけないでしょう か。勝手なお願いで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
A メールを拝受しました。つたないHPを御覧下さったとのことありがとうございます。
さて、『芭蕉翁月一夜十五句』ですが、これは宮崎荊口の『荊口句帖』に伝写され、以後これが情報源になっています。実は、荊口の句帖にも14句しかないのです。そのことを解説に入れておかなかったのは私のミスでした。後刻追記しておきます。
15句と言いながら14句はおかしいのですが、一句を紛失したか、または全体が荊口の創作かも知れません(芭蕉の作かどうか怪しいものもこの中にはあるかもしれないのです。)
なお、お気づきのことがありましたら今後もご指摘くださいますよう。
A 澤田、藤川、松井君へ
こんばんは,伊藤 洋(@山梨大学)です.楽しいメールを有難う.みなさんが芭蕉について興味を抱いてくださってとてもうれしく思います.芭蕉は,言うまでもなく,日本が誇る世界一の詩人です.言葉をこのように少なく使いながら,またそれゆえに,あるいはそれに反比例するように詩的空間を無限に拡大してみせる力量はただただ感嘆するばかりですね.そして,人生を通して常に言葉の持つ力を磨いていったということでも芭蕉を超える詩人は無いのではないでしょうか.
@さて,お尋ねの曾良旅日記との日時のずれですが,芭蕉が「奥の細道」を執筆したのが何時だったのかは定かではありませんが,どうも元禄5年6月以降ではないかと言われています.そうだとすると奥の細道の旅そのものは元禄2年3月27日から8月までですから,ずいぶん後になって書いたものということですね.芭蕉自身がメモはつけていたかもしれませんが,いずれにしても記憶は薄れていたはずです.芭蕉は,この旅の後はしばらく皆さんの故郷膳所の義仲寺や京都の嵯峨野,また石山の奥国分山の麓の幻住庵に滞在し,「幻住庵の記」・「嵯峨日記」など多くの作品を書いていますからますます記憶は薄らいでいたと思われます.これは別の見方をすれば,芭蕉にとって「奥の細道」のような名作が熟成される貴重な時間であったのかもしれませんね.
ともあれそういうわけで旅日記との時間のずれが生じたのは記憶の薄らいだためだと私は思います.
A芭蕉の忍者説についてはとても楽しいですね.しかし,芭蕉忍者説は昔から言われていました.なんと言っても服部半蔵の故郷伊賀上野の出身ですからね.しかしどうもこれも嘘話のようです.私のWWWにも掲載していますように芭蕉はたくさんの手紙を書いています.現存しているものだけでもこんなに沢山あるのですから,紛失したものを入れれば膨大な数に上ると思われます.まさかスパイのプロがこんなに手紙を書いていたらどこにいるかすぐわかってしまいますね.私は忍者やスパイをやったことが無いので分かりませんが,多分そういう職業の人は余計な手紙など出さないと思いますね.足跡がばれてしまいますから.仙台には5月4日から8日の朝まで滞在していますが,加衛門という風流人の案内で亀岡八幡宮や宮城野原,榴ケ岡など名所旧跡を見て回っているようで,どうもスパイの仕事に専念していた風はありませんね.
仙台でも多賀城でも国主の伊達正宗の話が出てきますから,スパイをしていたらやっぱりそんな名前は書かないでしょうからね.また,仙台より加賀百万石の前田家は幕府にとってもっと脅威でしたが,金沢でスパイをやっていたと言うような話もありません.
がっかりさせちゃって申し訳ないのだけれど,芭蕉先生はどうも体育会系ではなくて病弱のため忍者の勤まるような立派な健康体を持っていませんでした.しょっちゅう胃が痛かったり,痔疾といって肛門の病気を持っていたりで,下っ腹に力を入れて塀を飛び越えるような体力はまったく無かったようですね.
40代で旅をしているのも,芭蕉は「旅に死ぬ」ということを一つの美学としていた人でした.だから,ひょいひょいと旅をしたのではなくて,ふーふーいいながら旅をしていたのですね.彼は,西行や鴨長明,兼好法師,杜甫や李白などを最高のモデルと考えていましたので...
以上,みなさんの楽しみをぶち壊しちゃったかしら?? でも本当はやっぱり忍者だったというような動かぬ証拠を皆さんが発見すればいいわけですから,ひとつ頑張って決定的証拠を探してみてください.特に,近江は,膳所や彦根に多くの門人がいたし,芭蕉の墓もあるし,第一江戸と伊賀上野についでもっとも長く住んだ場所も滋賀県内ですから,何かの証拠が残っているかもしれませんよ.先生を誘って探索してみてください.成果が上がったらぜひ私にもお知らせくださいね.
伊藤さんへ
始めまして。私は大阪成蹊女子短期大学に通っている者です。
私は国文学科に入っていて、今芭蕉の「嵯峨日記」について調べていて、インターネットで伊藤さんのホームページを見て、少し質問したい事があります。
伊藤さんは、「嵯峨日記」について沢山のことを調べておられるのですが、いったい、何をもとに作っているのか教えてください。
来週発表があるんですが、いろんな人の色んな意見を活用したいと思っています。
そのために、その人が何を用いて調べたのか、何を根拠にそう言えるのかが知りたいのです。細かく言うと、「嵯峨日記」に23日と25日がありますよね?? なぜ、24日がないのか??ある本では、24日に芭蕉は酔って、書くのを忘れたとかいう説があります。一体どういうことなんでしょう??
お返事下さい。
M.M
M.Mさんへ