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「芭蕉db
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島田の時雨
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(元禄4年10月下旬:48歳) 
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[印]                                      ばせを 
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 時雨いと侘しげに降り出ではべるまま、旅の一夜を求めて、炉に焼火して濡れたる袂をあぶり*、湯を汲みて口をうるほすに、あるじ*情あるもてなしに、しばらく客愁の思ひ慰むに似たり*。暮れて燈火*のもとにうちころび、矢立取り出でて物など書き付くるを見て、「一言の印を残しはべれ」*と、しきりに乞ひければ、
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(やどかりて なをなのらする しぐれかな) 
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宿借りて名を名乗らする時雨かな
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 『奥の細道』の旅以来長期にわたる上方住いから江戸に下る旅の途次、島田の宿で塚本如舟のために書いた一文が『島田の時雨』である。
 一句の意味は「宿を借りようとして、大声で名を名乗らせるのは突如降ってきた時雨の所為だ」というのである。
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 島田市塚本如舟邸跡の句碑(牛久市森田武さん提供)
 
 
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 現在の大井川.東海道線車中より
 
炉に焼火して濡れたる袂をあぶり:<ろにたきびしてぬれたるたもとをあぶり>と読む。
あるじ:この主は塚本孫兵衛。芭蕉門人で大井川の川庄屋。大井川の川越人足数百人を抱える大親分であった。俳号如舟。
燈火:<ともしび>と読む。
客愁の思ひ慰むに似たり:<かくしゅうのおもいなぐさむににたり>と読む。旅の憂いが慰められるような気がした、の意。
「一言の印を残しはべれ」:何か私との交友のしるしに一言書きつけたものを下さい、の意。実際に如舟がねだったかどうかは分からないが、芭蕉は数多く東海道を上下する際、必ず如舟の世話になった。その謝意を込めてこの一文を書いたに相違ない。